たったいますれ違った若い女性の後をつけ、彼女の仕事と生活を覗き見てごらん、と言われたような素っ気ない始まりである。診療所の医師ジェニー(アデル・エネル)は愛想がいいとは言えず、化粧っ気もなく、しゃれっ気もない。素性は明かされないので、彼女のそれまでの道のりがわからない。いささかとまどうが、見始めたからには見続けなければならない。これは約束だ。
あまりシャープな働きをしない研修医(オリヴィエ・ボノー)に苛立ったせいなのか、午後8時に診療所のドアホンを鳴らした誰かを無視させたジェニーは、翌日、その少女が殺されたと知る。衝撃を受け、後悔したジェニーは、名前もわからない少女の身元を調べるため、人々にスマホの写真を見せようと街を歩く。その間も、裕福とは言えない患者が次々に彼女の助けを求めてくる。
せっかく大病院への就職が決まっていたのに、ジェニーは、引退した老医師に代わって診療所を運営していこうと考えるようになる。そう決意したからには診療所に泊まり込みだ。彼女の心理はほとんど言葉では説明されず、すべて行動で表される。それが次第に強くわたしの心を捉え始める。冷えた空気を押しのけるようにして生きている彼女の姿そのものがサスペンスなのだ。
さしずめ「女赤ひげ診療譚」とでも言うべきだろうか。若い身空で、眠る時間を削るようにしてわがままな患者の診療にあたるジェニーに、ぐんぐん惹かれていく。おそらく常に寝不足の状態で、暇を見てはスマホの写真を見せて歩く。それが思いもよらない危険を招くこともある。わたしははらはらして、お願いだから、もうそんな危ないまねはやめにして、と内心で叫んでいる。
やがて警察によって少女の名が明らかになるが、物語はもうひとひねりある。それはここでは伏せるが、そのことによってジェニーの行為が無駄ではなく、いや、それどころかすぐれて意義のある行為であり、厚意であったことが明らかになる。わたしは彼女の分身のような気持ちになって安堵する。
舞台はベルギーのリエージュ郊外とのことだが、この土地がどこであってもかまわない。それくらい、国や人種や犯罪や人の不幸やコンプレックスの問題をさっそうと凌駕するひとりの女性、ジェニーに魅せられる。それはむろん、わたしが女であるからであり、きちんとした志を持つ女が好きだからである。
ラストシーン、脚のわるい老婦人を地階の診察室にやさしくいざなうジェニー。ここでも画面は素っ気なく暗転するが、そこになんともいえない情緒がある。わたしはこういう人間が見たかった、見られた、という深い感動に包まれると同時に身が引き締まる。こういう映画に会うために何十年も生きて来たのであり、これからもずっと生きて行くのである。
(内海陽子)
午後8時の訪問者
4月8日(土)より、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー!
2016年 フランス・ベルギー映画/サスペンス/ミステリー/ドラマ/106分/監督: ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ/出演・キャスト:アデル・エネル(ジェニー)、オリヴィエ・ボノー(ジュリアン)、ジェレミー・レニエ、ルカ・ミネラ、リヴィエ・グルメ、ファブリツィオ・ロンジョーネほか
/配給:ビターズ・エンド
『午後8時の訪問者』公式サイト http://www.bitters.co.jp/pm8/