自然に恵まれた茫洋たる大地に陽光が燦々と降り注ぎ、どこまでも高く澄み切った青空は、なだらかな丘の稜線をくっきりと際立たせる。そんな牧歌的な山間の村を吹き抜ける風は、“明り屋さん”の手作りの風車を軽やかに回し、その音は谷間に大らかに響き渡る。
そんな時が止まったかのようなのどかさに、思わず観る者の頬をゆるませる中央アジアの国キルギスタンは、1991年に旧ソ連から独立して以降、天山山脈の向こうで虎視眈々と進出の機会を窺う中国をはじめとする“グローバル経済”の影響を受け、人々の暮らしは貧しく疲弊しきった状態だ。この映画の主人公“明り屋さん”も、かつては腕の立つ電気職人として引っ張りだこの信用を得ていたのだろう。しかし、今となっては彼の仕事は、電気代を払えない村人のために、メーターを細工して“電気を分けて”やるくらいのものだ。「明りのせいで眼が悪くなった」。そううそぶく明り屋さんは、村長さえも「あんたみたいな人ばかりなら」と認めるような愛すべき善人だ。
ケチな“電気泥棒”でありながら、村の開発を目論む有力者ベクザットの事務所で大統領の政治腐敗を噂する男たちの「あれば泥棒だ」という言葉を小耳に挟むや、「娘のために」とポケットに忍ばせたキャンディを慌てて元の皿に返す明り屋さんは、人間としての恥の感覚をたしかにその身に備えている。風力発電で村を活性化させたいという夢も、村人に無料で電気を行き渡らせたいがためであり、ベクザットのように自身の権力欲を満たすためではない。懐かしさを誘うような素朴な容貌に、はにかんだ笑顔を絶やさない、良き父、良き夫の明り屋さんに、私の心もほだされる。高い木に登ったきり、下りられない少年を助けるとき、少年の「山の向こうを見たくて」という言い訳に共感する天真爛漫な純朴さを、いつまでも失って欲しくないと願う。
そんな明り屋さんの唯一の後悔は、息子に恵まれなかったことだ。大地に生きる人々にとって、跡取りは重要な問題だ。そこにキルギスの現状が反映されている。若者たちは出稼ぎに外国に行き、村に残されたのは老人と子供ばかりだ。中国人投資家のために裸で踊る娘もまた、我が身を代償に得た金で祖母を養い、学費を稼ぐ。そんな娘の身の処し方は、豊かな天然資源を切り売りして、外貨を稼ぐキルギス経済そのものだ。
中国人投資家の慰め者になることを躊躇しない娘を必死で制止する明り屋さんは、キルギスの伝統競技“コク・ボル”で馬上の男たちが奪いあう、足首を切り落とされた山羊のように、ベクザットの部下にいたぶられ、その身を川に捨てられる。キルギス男性の誇りの象徴とされる帽子“アック・カルバック”を愛敬たっぷりに被った明り屋さんもまた、祖国キルギスの失われた純真さの象徴なのだろう。
“明り屋さん”を演じるのは、監督のアクタン・アリム・クバト自身だ。彼はそれまでのロシア名のアブディカリコフからキルギス名のアリム・クバトに改名し、初めて完成させたこの映画で、絶望的なまでに先行き不安な祖国の未来に力強く希望を見い出す。明り屋さんの身体は傷つけられ、地にまみれるが、そのとき谷を吹き抜ける風が、勢いよく明り屋さんの風車を回転させる。デビュー作『あの娘と自転車に乗って』でみなぎらせた心地良い自転車の移動の感覚さながら、どこまでもペダルを踏んで前に進む。それは清貧の生活を自然とともに泥まみれになって生きる、誇り高き人間のみが持ち得る爽快さそのものだ。(増田 統)
明りを灯す人
10月8日(土)、シアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー!
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