
声楽家のネリー(ニーナ・ホス)は、第二次世界大戦下のナチスの強制収容所で拷問を受け、心身に深い傷を負った。銃で破壊された顔の再建手術を受け、元の顔に近づいたが昔とはだいぶ違う。しかしその人間が本来持つ癖、体の特徴、眼の色合い、体臭は変わらないはずだ。それなのに再会した夫、ジョニー(ロナルト・ツェアフェルト)は彼女がネリーだと気づかない。彼は妻が死んだと信じこみ、その遺産目当てにネリーに“ネリー”を演じさせようともくろむ。
ひどい戦争を体験したことで人間は変わっただろう。ジョニーの心もすさみ、面変わりして体形も変わったはずの自分に気づかないだけだ。そう思うネリーは、気づかない夫にいくつものヒントを与え、彼が気づく日が来ることを信じて彼の要請に従う。しかし彼はいつまでたっても気づかない。はたから見れば、これは明らかにジョニーがネリーへの愛を失っている証拠である。
物語はまるで静かなホラーのように始まり、甘いラブロマンスの様相を呈し、サスペンスが異様に高まり、残酷極まりないが至極当然の人間の欲望にたどり着く。ジョニーはネリーへの愛を失っていただけではなく、非情な裏切り行為に及んでいたのである。かつてのネリーを知る人々はごく自然に彼女を認めるのに、この期に及んでもジョニーは彼女の芝居が人々に通用していると思っている。そこでネリーはジョニーのピアノ伴奏である歌を歌い出す。
クルト・ヴァイル作曲『スピーク・ロウ』は、時とともに消え去るはかない愛をしのぶ名曲である。悲しみを振り払い、深い断念をもって歌い続けるネリーと、事態に気づいて次第に顔色を失くすジョニーとの対比に背筋がぞくぞくする。夫との過去をたどり、愛を確かめ、未来を夢想していたネリーは、真実を知ると同時に自分を取り戻す。それは新たな癒えない傷口が開いたことをあらわす。
ふと思う。これはそもそも男女が逆の物語だったのではないかしら。愛における女の裏切りは定番だから。しかし戦争が絡んだ男の裏切りとして描いたところに、クリスティアン・ペッツォルト監督の野心と辛辣な視線を感じる。
(内海陽子)
あの日のように抱きしめて
8/15(土)よりBunkamuraル・シネマほか全国順次ロードショー!
配給:アルバトロス・フィルム)
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