(C)PFFパートナーズ/東宝
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オープニング、青空に直線を標す飛行機雲を、屋根の上で凝視する健二を、長回しのキャメラは揺らぐことなく見つめる。どこまでも広がる天空の果てしない飛翔は、行き場を見失ったまま我が家という檻に閉じこもる健二の、秘かなる旅立ちの願望を暗示するかのようだ。

しかし、その我が家も立ち退き期日が迫っているにもかかわらず、引っ越し先の当てもなく、私物の整理に勤しむわけでもない健二は、ただ時を無為にやり過ごしている。
1986年生まれの監督、廣原暁は、物ごころついてからどっぷり退潮ムードの平成の世で育った27歳だ。将来にさしたる希望を見い出せないまま、生き馬の目を抜く競争社会を傍観するしかないアラサー世代が強いられた虚無を、長回しの映像から観る者にじわり体感させる監督手腕は、なかなかどうして肝が据わっている。

健二は、廣原と同世代の30歳だ。そして、独身。私は、健二とは一回り以上年齢は上だがそれでも、やり甲斐があるとは明言できないまでも、まがりなりに同僚から“先輩”と呼ばれる程度のキャリアを積んできた塗装工の仕事を、社長の夜逃げによって突然、失った戸惑いと失望は理解できる。

しかし、これまでも充分に享受してきた自由を、さらに手に余るほど一身に浴びることになった健二の、さほど愛着があるようには見えないこの家での開き直りのような“暇潰し”に潜む諦観には、言葉を失ってしまう。母は失踪し、父は不動産屋の“口車”にのって辺鄙な高原にペンションを建ててしまった。妹は、海外放浪中だ。そんな家族離散の現実さえ、何食わぬ顔で受け流す健二は、父が留守番電話に吹き込む他人事のようなメッセージを聞きながら、夜ごと、テレビに向かって弁当を貪り喰う。

その一方で彼は、旅先から送りつけられた妹の手紙を読んで、自室の壁に広げた世界地図に、彼女の軌跡を細やかに記すのだ。それだけが健二の存在証明のような現実に対するちっぽけなあがきに、私は思わずため息をつく。その世の中への抵抗が、あまりにいじましいからだ。無視を決め込むほどの覚悟は、健二にはない。

しかし、小学生たちの執拗なピンポンダッシュは、カーテンで閉め切った自室に差し込む眩い陽光さながら、惰眠に耽る健二を容赦なくに揺さぶる。

覚束ない文字で「はたし状」と書かれた小学生たちと水鉄砲で真剣勝負する健二は、大人になり切れない少年なのだ。だから彼は、小学生の頃、妹と遊んだダンボール箱の恐竜を、親子ほど年齢の離れた彼ら小学生たちと今、組み立てる。廃業した塗装店の店内からペンキを盗み出し、庭に威風堂々と屹立するトリケラトプスに嬉々として色を塗る健二は、彼を“水魔人”と仇名した小学生たちのガキ大将だ。

そんな小学生の夏休みを一緒になって謳歌する健二は、終りの見えない彼自身の“休暇”にいじいじとしがみつくモラトリアムだ。解体を待つ我が家は、健二にとってその最後の砦なのだ。

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しかし、不動産会社に勤めるのぞみは、「沢北くんがまだここにいるとは思わなかった」と、かつての同級生、健二の“引きこもり”を一刀両断する。自分の勤める会社が、悪どい商売にも手を染めていると自覚している彼女は、健二が立ち退いたはずの我が家に潜伏していることを黙認し、それでいて立ち退き料をと凄んでみせる彼を頑と撥ねつける社会人としての駆け引きを、すでに備えている。そんなのぞみに、「この家にいる理由は?」と訊かれて健二が逆上するのは、よりによって幼馴染みには触れられたくない弱みをグサリと衝かれたからだ。自分のふがいなさは、彼自身が誰よりも自覚している。夏休みは、いつか終りの時が来るのだ。

小学生のひとり、ころ助はかつて健二たち一家が暮らしていた団地に住んでいるという。健二にとって家族団欒は、狭い部屋に4人家族が肩寄せあっていた団地時代で断ち切られた。画一化された郊外の新興住宅地で、家族はてんでばらばらとなり、当時の記憶は色褪せた家族写真にそのよすがを留めるのみだ。ころ助もまた仲間たちと大はしゃぎした後、自分を待つ親の温もりのない団地の一室に、夜の闇の心細さに包まれながら独り帰宅する。ころ助は、幼かった頃の健二なのかもしれない。

孤独は幾歳になっても、癒しがたい魂の叫びだ。一見、自由気儘な健二の妹でさえ、兄に宛てた手紙にこう記す。「もしもこの手紙が誰にも読まれなかったら」。それは、日々を閉ざした健二とは対照的な、世界を彷徨うデラシネの悲痛だ。世界地図から日本列島のシールを剥がせば、そこは一面の大海だ。その脆すぎる存在の虚ろを抱えて、それでも彼らは今、ここに生きている。

廣原は、そんな健二たちの孤独に、同世代の共感を込めてしっかと寄り添う。ころ助を探して、団地内を「おーい」と叫びながら自転車でと回遊する健二を俯瞰で捉えた長回し映像は、ついぞ見せなかった彼の懸命がドキュメンタリーのような臨場感とともに零れ落ち、その人を想う切実さに胸揺さぶられる。その日、まさに世の不条理といいたいかのような、ころ助と行こうと約束していた水族館が休館だった肩透かしのタイミングも絶妙に、ビデオに映し出されたイルカの映像に飛び付くころ助が健二に肩車されたとき、近しかったふたりの関係性が、映画的に一体化する。

ならば、別れ際、ころ助に「“水魔人”、一人は淋しくない?」と訊ねられた健二が目交いも晴れやかに言い切る「淋しくない」は、彼の自問自答のようにも思える。帰る家はもうない。トリケラトプスは焼き払った。健二の夏休みは終わった。ゼロからの再出発は、期待と興奮でこれからの健二を揺さぶるだろうか。

夕暮れの橋上で、風船を握りしめたころ助を乗せた自転車のペダルを踏む健二を横移動で捉え続けた映像の、ポエティックな躍動感に思わず私は見惚れた。殺風景で余所余所しい郊外の街にも、かけがえのない美しい瞬間は転がっている。そんなささやかな歓びの積み重ねが、生きるということだ。 (増田 統)

HOMESICK
2012/日本/98分/監督・脚本:廣原 暁/出演:郭 智博、金田悠希、舩﨑飛翼、本間 翔、奥田恵梨華
/配給・宣伝:マジックアワー
オーディトリウム渋谷にて公開中 全国順次ロードショー
公式サイト:http://homesick-movie.com/