開巻早々、大学生サイモンの昂揚感を映し撮るように、キャメラは溌剌と街中に飛び出す。「季節はめぐる。戻れないあの日。回転木馬は回り続ける。サークルゲーム」。ジョニ・ミッチェル作曲、バフィ・セント=メリーの唄う主題歌に乗って、サンフランシスコの1960年代後半の“今”が、躍動する。
進取の気性に富み、その約10年後の77年には全米で初めて同性愛者の市長を生んだ町、サンフランシスコ。原作の舞台はニューヨークのコロンビア大学だが、市民の憩いの場だった公園を、軍の訓練所に差し出すことで間接的にヴェトナム戦争に協力すると同時に、私腹を肥やす大学上層部に叛旗を翻す大学生の意気は、太平洋からリベラルな風を運ぶこの街の方が、銀幕的に馴染む。劇中、食糧を提供することで学生に協力する食品店主が、対外的には学生たちに強奪されたと“狂言”を打つことで、保険金の詐取を目論むように(故ジェイムズ・ココの快演!)、この街には体制の裏を掻いてほくそ笑む反骨精神を刺激して止まない何かが潜んでいるのかもしれない。
それにしても、キャンパス内で繰り広げられる反体制パフォーマンスや、路上で警官に尋問される若者グループの装いの、何という奇抜さ。作為に囚われないスチュアート・ハグマン監督が、まるでドキュメンタリストのように見つめるサンフランシスコの若者たちの中には、実際にその変革の波に身を投じた者もいただろう。そんな監督の映像スタイルには、アメリカン・ニューシネマというより、むしろフランス・ヌーヴェルヴァーグが実践した“シネマヴェリテ”のナイーヴな息吹きがみなぎる。
学生から注視を浴びる学生運動のリーダーの顔とサイモンの顔が、いつしか彼の脳裏で重なるモンタージュに、サイモンのまだ見ぬ“憧れ”が初々しくこぼれる。サイモンが学生運動に参加することになったのは、その憧れの熱に浮かされるように、見知らぬ女子大生の顔に見惚れてふらふらと占拠中のキャンパスに迷い込む成り行き上の軽い気持ちであって、政治的な主義主張とは無縁だ。
サイモンの所属する大学ボート部といえば、『ソーシャル・ネットワーク』の双子兄弟も然り、今も昔もキャンパスの花形だろう。しかし、長身痩躯のサイモンは、アスリートとしてはいかにもひ弱だ。実際に、チームメイトのジョージとの揉み合いの最中、あっさり組み敷かれ、拳で唇を切られてしまう。彼とコックスのエリオットは、体育会系に紛れ込んだ文学青年のような違和感を、その身にまとう。『2001年宇宙の旅』のサントラジャケットを飾り、ロバート・ケネディのポスターが貼られた彼の部屋の台所には食べかけのピザが散らかり、自身の心境は彼がコップで四方を囲んだ、行き場を阻まれたゴキブリ同然だったのかもしれない。
そんなサイモンがストのリーダー格から、いきなり“食糧組”を任ぜられ、あの見惚れた女子大生リンダと秘密の脱出口を辿って、冒険さながらの買い出しに出掛けたとき、ここを自らの居場所と錯覚したとしても不思議はない。これまで味わったことのない喧噪に沸く“お祭り騒ぎ”の切符を手に入れたのだから。
あふれんばかりの食糧が詰め込まれたカートに乗って、リンダとともにサンフランシスコの坂道を一気に滑り落ちるサイモンの胸中に、彼女への恋の予感が飛翔する。遊園地の“サークルゲーム”に乗り、猛スピードの中でリンダと視線を絡めるサイモンに、私は『大人は判ってくれない』で同じようにサークルゲームで大胆不敵な面差しに無邪気な微笑みを覗かせたアントワーヌ・ドワネルを重ね見てしまった。彼もサイモン同様、自身の居場所を希求する少年だ。そこにもハグマン監督のヌーヴェルヴァーグへの憧れを連想してしまう。
しかし、そんな“お祭り騒ぎ”が永遠に続くはずもない。頂点に達した興奮は、萎む時を待つばかりだ。ジョージに殴られた傷を、警官隊からの“名誉の負傷”だと嘘をついたサイモンの有頂天は、やがてそのジョージが“流行っているから”と屈託なく学生ストに参加するや、たちまち警官に殴られて骨折する正真正銘の名誉の負傷に台無しにされ、リンダとのデートの最中、黒人グループに愛用のスーパー8を踏み潰される。
彼らは現実の前では理想を求めた夢追い人にすぎなかったのか。一斉に体育館の床を叩きながら唄う「平和を我等に」のコーラスは、彼らの“白鳥の最後の歌”だ。体育館に踏み込んできた警官隊にその身を投げ打って抵抗する学生たちは、振りかざされる警棒の痛みによって“祭り”の終わりを実感する。銀幕を、その阿鼻叫喚に刻みつけられた諦観で臨場感たっぷりに満たすハグマン監督は、ここでもキャンパスを取り囲んで、「洗濯の途中だわ」とか「この中に参加したかったわ」と口ぐちに漏らす野次馬たちを、ニュース番組でインタビューに応える人々のように客観的にとらえ、バリケードひとつ挟んだふたつの世界の温度差を明確に打ち出す。
しかし、ひとときの栄光は決して手に掴めなかった幻ではない。束の間でも満喫した自由の味、それこそが学生にとっての“いちご”だ。典型的なノンポリだったサイモンの胸に芽生えた体制への批判精神は、ちょうど今、全世界でデモ行進を続ける人々の輪の中にも見い出せる。と同時に、今も昔も民主主義の“いちご”は、闘いなくして味わうことはできないのだろうと、傍観者の私は嘆息するのだ。 (増田統)
いちご白書
35mmニュープリント&デジタルリマスター版 リバイバル上映
11月19日(土)新宿武蔵野館他にて全国順次ロードーショー
配給:アンプラグド
公式サイト http://eiga-ichigo.com/