『ディナー・イン・アメリカ』映画レビュー 透明でパワフルなオフビート感

最初は、日本映画を見ているようだった。アメリカ映画なら、『ナポレオン・ダイナマイト』。公開当初は『バス男』というタイトルだった傑作映画だ。あるいは、スカーレット・ヨハンソンの出世作、『ゴーストワールド』。多少オフビートな世界観。ところが、『ディナー・イン・アメリカ』は、突然、印象が飛躍する。透明で純粋でパワフルな映画だった。『トゥルー・ロマンス』の趣もある。

見るに堪えないシーンから始まる。病院のランチルームで、その男、サイモンは、目もうつろだ。口からだらだら食事がこぼれる。理由は後ほどわかるけれど、その後は、危険で乱暴な行為に身を染めていく。警察にも追われている。

女性、パティも冴えない登場だ。田舎道のバス停のベンチでサンドイッチを食べている。馬鹿にされるけれど、鈍いのかどうか、応答も曖昧だ。彼女は、ペットショップで働いている。シミのついたスモックも野暮ったい。この二人が、主要登場人物ならヤバいね、って一瞬思ってしまった。その印象が、どう飛躍し、変化していくかが、映画の一番の見どころ。

二人が出会う。隠れ家も警察にマークされていて、寝床を探すサイモンは、パティの家に転がり込む。パティの両親は娘を大事に育てている。その両親には、サイモンの親はタンザニアで教会を建てていて、サイモンは今だけ、寝る家を探していると言うことで泊まり込む。

各家庭のディナーシーンや食べることが、作品のアクセントとなっている。パティとサイモンがキスをするのは、ハンバーガーショップ。ちなみに映画タイトルの『ディナー・イン・アメリカ』は、パティが大好きなパンクバンド、サイオプスの代表曲だ。

平凡なシーンになりかねないけれど、食べるシーンこそ、表面をつくろってきた仮面を脱ぎ捨て、人間性や生き方が裸になってしまうことを表現している。食べ方しかり、食べるものしかり、食卓の話題しかり。

映画のさらなる隠し味は、音楽であり、生き方だ。つくろった日常にしがみつく人々が主流だとしたら、パティもサイモンも、それに属すのが難しいタイプだ。いわば、はみ出し者。

人々が何にしがみつき、何を求めているのか、その生き方は薄っぺらではないかと思うのは、パティとサイモンの世界が迫ってくるからだ。彼らをいじめる人々は、いつも誰かとつるんでいる。それは人間だから仕方ないことかもしれないけれど。

見栄えの良さ、どうみられるのか気にすること、そんなことはどうだっていい。自分が誰で。どうありたいのかがわかっていればいい。最後まで見ると、きわめて真っ当でお行儀がよい映画だと思う。誇らしく生きるには、時には一人でいることも大切。ラストシーンからは、その爽快さと力強さが迫ってくる。

オライカート昌子

ディナー・イン・アメリカ
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2020年製作/106分/PG12/アメリカ
原題:Dinner in America
配給:ハーク