(C)2013「舟を編む」製作委員会 
(C)2013「舟を編む」製作委員会 
 小さなトラウマになっている記憶がある。市川準監督『トキワ荘の青春』(1996)の評を某映画雑誌に書いたとき、「愛惜」という言葉で讃えたところ、雑誌を見たら「愛情」に直されていた。辞書で見つけ、心をこめて書いた言葉だったのでがっかりし、文面が薄っぺらな印象になったのに腹が立った。担当編集者以外の誰かが書き変えたとわかり、やがてその雑誌とは縁が切れた。

 こんな愚痴を馬締(松田龍平)に言ったら「憮然」とした表情をしてくれるだろうか。本作は三浦しをんの人気小説の映画化で、「大渡海」という新しい辞書の編纂に没頭する実直な男と彼をめぐる人々の、静かで坦々としているように見えてサスペンス溢れる日々を描く。言葉にこだわることは、こんなにも素敵なことだと励まされるようで、小さなトラウマを誇りたくなる。

 大手出版社の営業部で使いものにならずに浮いていた馬締は、言葉へのこだわりを見込まれ、辞書編集部に異動になった。ようやく天職にめぐり会えた彼に、伝統を感じさせる下宿屋の大家(渡辺美佐子)は温かい。二人のやりとりは古き良き時代を彷彿とさせ、わたしの心を和ませる。

(C)2013「舟を編む」製作委員会 
(C)2013「舟を編む」製作委員会 
 この大家の孫娘・香具矢(宮﨑あおい)と遭遇して恋に落ちた彼が「恋」の語釈に苦悩し、ついに「ある人を好きになってしまい、寝ても覚めてもその人が頭から離れず、他のことが手につかなくなり、身悶えしたくなるような心の状態。」という一文を完成させると、目頭が熱くなる。登場人物の不幸に涙するより、幸福に涙するほうが断然いい、と心は高揚するばかりである。 

 同じく三浦しをん原作『まほろ駅前多田便利軒』(2011)で糸の切れた凧のような男を演じた松田龍平が、一生の仕事に目覚め、恋を成就させる様子は、いじらしくて目が離せない。物語の中の女性たちもそう思うようで、大家も、彼の妻になった香具矢も、辞書編集部の契約社員(伊佐山ひろ子)も、きわめてさりげなく内助の功を発揮する。いい女たちに大事にされて、馬締はこれからも辞書編集部で生きていくのである。

 生きることに飽き飽きしたら、生きることに落胆したら、生きることに絶望したら、馬締の生きかたを反芻してみよう。生き続けることは、何かを生かし続けることだ。そういう確信を持って歩む彼に深い愛惜を覚える。
                            (内海陽子)
舟を編む
松田龍平 宮崎あおい
オダギリジョー 黒木華 渡辺美佐子 池脇千鶴 鶴見辰吾
宇野祥平 又吉直樹(ピース) 波岡一喜 森岡龍 斎藤嘉樹 / 麻生久美子
伊佐山ひろ子 八千草薫 小林薫 加藤剛
原作:「舟を編む」三浦しをん(光文社刊)  脚本:渡辺謙作
監督 石井裕也
製作:「舟を編む」製作委員会
製作プロダクション:リトルモア フィルムメーカーズ 特別協力:株式会社三省堂 三省堂印刷株式会社  
配給:松竹 アスミック・エース     fune-amu.com   (C)2013「舟を編む」製作委員会 

公式サイト http://fune-amu.com/
4月13日(土)丸の内ピカデリー他全国公開