公開中の映画『湯を沸かすほどの熱い愛』が話題となっています。今後さらに広がりを見せそうな本作について、武茂孝志、中野豊、オライカート昌子、内海陽子の4人で座談会を行いました。
湯を沸かすほどの熱い愛とは
商業映画一作目の中野量太監督が描くのは、”死に行く母と残される家族が紡ぎだす愛”。各方面から愛される映画として評価もうなぎのぼりとなっています。主演の母役に宮沢りえ、他に、杉咲花、オダギリジョー、松坂桃李などが出演。
人間愛と物語の展開のセンスに驚き
内海:今日は、中野量太監督『湯を沸かすほどの熱い愛』についての座談会です。まずは、好きだった方の意見から。
中野:愛です。愛に溢れる映画です。人間愛。
内海:いちおうそうですね。私は「人の惚れた女(映画)にケチをつけるのはやめよう」という、信奉する映画評論家・山田宏一さんの教えに逆らって、今日は人の惚れた女にケチをつける役なんで、ひとまず皆さんの意見を聞いてから。
中野:みどころというか、ポイントなんですけど、親子関係というか、いじめのところがあったじゃないですか。あそこで自立させていく。今の親たちにはないところ。今の親たちはどちらかといえば、逃げさせる。
内海:あるいは、モンスターペアレンツ。
中野:ああじゃなくて、突き放していく。どんどん自立しろっていうくだりもそうですが。
オライカート:あそこは一番のみどころですね。もう一人の娘に対しても。
中野:そうそう。そして人々を愛で巻き込んでいく宮沢りえちゃんの役、素晴らしい人だなと思いました。
オライカート:最後に彼女がなぜそんなに愛を持っていたのかというのは、自分が愛を求めていたからだというのが明かされるじゃないですか。そうでないとすごい理想論なんですよね。
内海:そりゃそうだ。
オライカート:あんな親いませんよ、というぐらいに思いました。
内海:現実にはいなくても、映画はときに理想を描くものですからね。願いを描く。
武茂:私は洋画優先で、邦画を見る機会が少ないのですが、知人から「物凄く泣ける映画」と執拗に勧められて見に行ったんです。
まず、オリジナル脚本というのでびっくり。物語の展開、そのセンスに心奪われました。何といっても、伏線の見事さ。とくに、母親の宮沢りえがある日突然、末期がんと告知される前後のエピソードに唸りました。
娘から、「お母さん、このごろ味噌汁の味がヘンだよ」と言われる。
その後、がんに冒され、味覚障害になったことを知る母親。
その日から、食事がしゃぶしゃぶオンリーになる。
家族は喜ぶけど、やがてそれが「末期のがんが原因なのだ」と知ったときの
みんなの表情が泣かせるんですよ。
しゃぶしゃぶは基本、味付けが不要で、好みでポン酢かゴマだれを用意するだけ。味覚障害、ひいてはがんに冒されていることを隠し通せると思う母心にグッときちゃいました。
このシナリオの上手さは、タイトルからして伏線になっていることだよね。
内海:私はそれが逆に感じられるんです。武茂さんのおっしゃったことの全く正反対。
武茂:私は好きですね、あのラスト・シーンは。まるでヨーロッパ映画を見ているような素晴らしさ。邦画には珍しいセンスだと思った。
内海:日本映画差別ですよ。これを機会にもっと日本映画をごらんになってください。
武茂:いや、結構です(笑)。
この映画の前日に、同じく栃木県の足利を舞台にした『アズミ・ハルコは行方不明』を拝見したんですが、私には響くものがなかった。翌日の『湯を沸かすほどの熱い愛』が同じ地を舞台にしながらこれほどまで素晴らしいとは思ってもみなかった。
内海:『アズミ・ハルコは行方不明』はインディペンデント映画の一番悪いところが出ているような映画ですからね。『オーバー・フェンス』をご覧になってくださいよ。
オライカート:映画は理想を描く。といっても、実際に見ると、違和感があるんです。人間愛がまず最初。親子愛ではなく。
中野:親子愛じゃないもの。
オライカート:こんな人いるの? って思いました。
中野:いないですよ。
内海:擬似親子だから。だから頑張れるっていう作り話なんだけど、暮らし始めれば、擬似であれなんであれ、親子として向き合って戦うものでしょ。受け入れられない?
オライカート:ファンタジーとして見るなら、あるいは、親はこうあるべきという理想として見るなら……。それこそいじめの対処にしても。
中野:べきではなくて、あれはヒントなんですよ。
内海:母はそう思っちゃうのよ。母はまじめだから。責任があるから。この映画の中でも男は全然責任とってない。
中野:とってないですね。
内海:母という存在は責任をとらなくてはいけないという縛りがあるのよ。
オライカート:オダギリ・ジョーはミスキャストじゃないかと思うんですけれど。
内海:そう?
中野:そうは思いませんね。
オライカート:映画としては華やかなキャストとしてオダギリ・ジョーは正解だと思うのですが、もっと中年のちょっと小太りで女好きのおじさんの方が、説得力があったと思いますね。
内海:それはそうかもしれない。
オライカート:もっと庶民的であってもいい。なんであそこでオダギリ・ジョー? って思いました。
中野:オダギリ・ジョーを出さなきゃダメでしょ、映画なら。
オライカート:あれほど女好きな男に見えない。あれほど次から次へと。
内海:彼は単なるナルシストっていう感じね。でもいいよね、楽しんでいるよね。出過ぎずにやっているところが、頭のいい人って感じ。『オーバー・フェンス』の後でもあるし。ここまで出てもいいけど、ここまでにしておこうっていう距離を測るのがうまいですね。
中野:オダギリ・ジョーって、主演より助演の方が引き立ちますね。
内海:本人がそれを望んでいるんでしょうね。
中野:望んでいるんでしょうかね?
内海:そういう方向を考えているんじゃないでしょうか。
監督は匂いを知らない
そろそろケチをつけます。私の友人で、最後になるまで涙がとまらなかったけれど、ラストシーンになって、さっと涙が乾いたと言った人がいました。終わりよければすべてよしという言葉があるじゃないですか、この映画に関しては、終わりがすごく残念だなって感じ。久々にシラけた映画でした。ずっとノッて見ていたんですが。宮沢りえの演技も、子供たちも、人間関係の転がし方が丁寧で、ほかの役者さんの演技もとっても緻密。ピタピタピタッと来るのに、ラストを見たとき、非常に嫌悪を覚えました。
犯罪者集団とか、妙なことをして生きている集団の話ならわかりますが、まともな普通の悩みを抱えて生きている人たちがラストに向かって行って、あのオチ。この監督は”匂い”を知らないんだなと思いました。
夫は山形の豪雪地帯の出身ですが、やはり匂いはよく知っているそうです。この映画のことを言ったら、えーっ? 町中から非難されて、パトカーも来ちゃうのでは? と言われました。
武茂:ラストの捉えかたは、人それぞれでいいじゃないですか。たとえば私は、この映画をある意味ヒューマン・コメディーとして見てました。町の人たちに愛され続けた老舗の風呂屋で葬式が行なわれる。番台が受付となり、お経はカセットテープで流れ、最後に映画のタイトルを連想させるシーンが現れる。粋なことやってくれたね、中野監督! と嬉しくなっちゃった。
実際のところ、中野監督がどう考え、どう描いていたのかは分からないけど。
内海:でもちゃんとリアルな家族像を描いていますから、普通に見れば、そうなんですよ。葬祭業者を排除して、川原へ行って、また戻る、花に埋もれた彼女が写る。風呂屋の焚き口が写る。モンタージュ理論でしょ。
武茂:私はどちらでもいいと思うんですよ。そうであってもそうでなくてもいい。どちらに取れてもいいじゃないですか。
内海:解釈の仕方はいろいろありますものね。ただ、私は本当にシラけちゃって、監督の中野量太さんは”匂い”を知らないと思うし、誰がゴーサインを出したのかというところが気になります。武茂さんのおっしゃるようなことにするとすれば、もっともったいぶった、ファンタジーにするためのもう一段仕掛けがあっていい。
もしかしたら、誰かの幻想であった、というような何か一コマ必要ですよ、この場合は。誰か止めろと。年配の人がね。
武茂:セオリーとしてダメ、とは乱暴すぎますよ。それこそ古臭い。映画というエンターテインメントの世界なんですから、表現スタイルは何でもありなんですよ。
内海:これは設計図に納得がいくかどうかという問題で、なんでもありという言い方は、この映画のフォローになっていませんよ。
武茂:作品の責任者として、描き方は監督が好きにやればいいじゃないですか。先にも言った通り、私はこの映画をヒューマン・コメディーとして見ていたのでラストの描き方、表現については、万々歳でした。だからこそ、一瞬見逃してしまったかもしれない「戒名」が気になって仕方ないのです。人情コメディーならばこその「戒名」が付けられていたはずです。
内海:勝手につけたんじゃない?
武茂:どんなユニークな戒名をつけたか、ですよ。
内海:お坊さんに頼んだのか頼んでないのかということですね。
武茂:あれほど手作りの葬式なんだから、あの家族が戒名を付けたに違いありません。
内海:私はどうでもいいと思いましたが。
赤い色は過去の映画に影響を受けている
中野:いい話でいい物語ですよ。最後の赤い色ですよ。あれは赤くなるはずがないんで、メタファーなんです。
内海:彼女が赤が好きということで。ますますシラける。
中野:赤が好きだし、赤い煙は黒澤明の『天国と地獄』(1963)もありますし、『シンドラーのリスト』(1993)にもあります。そういう過去の映画の”赤”にインスパイアされていますね。映画が好きなんですね。ただね、この監督は匂いは知らないと思いますね。
内海:中野さんの世代でも匂いは知らないの?
オライカート:私も知らないです。
内海:私の世代がぎりぎり知っているのかしらね。
内海:だれか知っている人がいれば、何かサジェスチョンがあったら、描き方が変わったと思います。このままでは、突っこみをかわせないですから。私の突っこみをかわすようなエクスキューズが欲しいですよね。ラストであれをやりたいがためにお風呂屋さんを選んだのかと、それであのタイトルかと、思いきりシラけました。
中野:選んだんでしょうね、結局は。
内海:結末ありきってことがバレちゃう。
内海:湯につかった子供たちの笑顔なんて見せないでほしい。ほとんど猟奇的。
中野:そこだけ見れば『冷たい熱帯魚』(2010)のような話なんだけど。
内海:『冷たい熱帯魚』的な作業があったわけですよね。
中野:そう。それはわかるけれど。
内海:私の意見だと言うことは、わかってくださいね。全部がダメな映画だとは思わないけれど、今年シラけた映画トップワンですね。終わりが残念ならすべて残念ということです。
オライカート:監督の考えを推理すると、あれがないと、単なる”普通の映画”になっちゃう。自分らしさを出したい、この映画の独特の色をバンと出そうと思ったんですよ。ただしそれは、リスキーでもあり、気に入った人もいれば、嫌なひともいるし、納得できる人もいる。
内海:気がつかない人もいる。
中野:僕は気がつかなかった。
オライカート:でも、「あれ?」って思いませんでしたか? あれ?って。
中野:あのことに関してはですね、ただ、匂いは気がつかなかったですが。
内海:私は愕然としましてね、使命感を持って今日、ここに来ているわけなんです(笑)。涙を流したまま、凡庸なオチでいいじゃないですか。
オライカート:私はラストはいらない、と思いましたね。
中野:僕だったら、やっぱり風呂にしたいな。
オライカート:もしかしたら、彼女がそれを望んでいたということなのかもしれないですね。描かれてはいないけど。
中野:そしてみんな捕まると(笑)。とにかく僕はこの映画が、今年のベストワンです。
湯を沸かすほどの熱い愛
絶賛公開中
宮沢りえ、杉咲花、篠原ゆき子、駿河太郎、伊東蒼/松坂桃李/オダギリジョー
脚本・監督:中野量太
主題歌:きのこ帝国「愛のゆくえ」
配給:クロックワークス
公式サイト http://atsui-ai.com/