『シリアにて』映画レビュー

生きていくうえでとても重要なこと、それは何だと思う?

『シリアにて』という映画には、その一つの答えがシンプルに表現されているように思う。

この映画では、アパートに閉じ込められた家族と、家を破壊され逃げてきた隣人たちの密室内での緊迫した一日が描かれている。

カーテンの向こう側は戦場という極限状態の中で。

ところで、最近では、日本でも中東発の素晴らしい映画と出会う機会が増えてきている。

たとえば、『判決、ふたつの希望』たとえば、『テルアビブ・オン・ファイア』この二作品はどうなるのかとてもワクワクしてしまう素敵な映画だった。

『シリアにて』は、シリアのことを描いている中東発の映画のように見えるけれど、少し違う。

シリアという、享楽的でリッチな文化を持った美しい国が、ISとの戦闘によって、破壊され、難民が続出した。

そんなシリアの状況で、閉じ込められた家族がいた話を聞いたベルギー人映画監督のフィリップ・ヴァン・レウが、中東出身のキャストを使って、取材の力で映画を作り上げている。

アラブ・イスラムの文化や風習の描写は最小限に収めている。最初の方のシーンで、メイドの部屋に仏像が飾ってあるけれど、アラブ発の映画なら、それをわざわざ表現することはないはずだ。

『シリアにて』は、ローカルな映画というよりは、インターナショナルな映画だという監督からのメッセージなのだとわたしは読み取った。

そういうあえてアラブ的ではないよ、というメッセージシーンはいくつもあって、状況によっては、どこのどの時代でも成立する話となっている。

だからこそ『シリアにて』は、多数の人の心に訴えかける力があり、世界の映画祭で上映され、ベルリン国際映画祭パノラマ部門観客賞受賞を初めとして、18以上の受賞歴を持っているのだと思う。

夫は戦闘に出ていて留守の中、三人の子の母オームは、子どもたち、年老いた義父、メイド、そして家を破壊されたため、やむなく逃げ込んできた隣人たちとともに、家を守っている。

赤ん坊を抱えた若い隣人のハリマ夫妻は、ルートを手配できたため、その夜ダマスカスから脱出する予定だった。

だが、確認のため外に出たハリマの夫がスナイパーに銃撃されるのを、メイドが窓から目撃してしまう。それを聞いたオームは、ハリマにはそれを知らせることを遅らせる。

彼の生死を確認するにも、スナイパーがいる。爆撃もある。外には暗くなるまでは出られないという理由もあった。

戦闘の音がするたび、窓が揺れるたび、家族は、キッチンに閉じこもる。アパートにほとんど人はいないはずなのに、上の階からは足音がし、ノックの音がする。何者かわからない人が、出入りしている。

そしてとうとう窓を破って、何者かが侵入してくる。そこでオームも、ハリマも、大きな決断をしなくてはならなくなる。

その決断こそが、私たちが生きていく上で重要なことを思い出させてくれるものだと感じた。

なんて大きな決断だろう。

できることなら愛の心で生きたいと思わないだろうか? 

その愛の心の指標となるのが、隣人との付き合いだ。家族や親しい友人、あるいはまったく見知らぬ人に愛の心を示すことは誰にもできる。

でも、隣人同士はかえって難しいかもしれない。

聖書の言葉に「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とわざわざあるぐらいだ。(この場合の隣人は、近所に住んでいる人というよりは、あなたの隣にいる人ということだけど)

隣人(近所に住んでいる人)というのは、学校の同級生や、会社の同僚以上に、いやおうなしに付き会わなくてはならない。

生活音や朝夕の出かける際に不意に侵入者のように存在を思い出させられ、いろいろな感情が掻き立てられたりする。嫉妬、いら立ち、うざい気持ちなど。

隣人との付き合いの難しさは、いくつもの映画のテーマになっている。

『シリアにて』は、新鮮な観点からの”隣人映画”だ。はたして私は、彼らのような決断ができるだろうか? ためらわずに、とっさに、一瞬に。

だから、この映画はローカルな映画ではない。私についての映画である。そして、あなたについての映画でもあるかもしれない。

(オライカート昌子)

シリアにて
(c)Altitude100 – Liaison Cinematographique – Minds Meet – Ne a Beyrouth Films
8月22日(土)よりロードショー!岩波ホールほか全国順次
2017年製作/86分/G/ベルギー・フランス・レバノン合作
監督:フィリップ・ヴァン・レウ
出演:ヒアム・アッバス、ディアマンド・アブ・アブードほか
原題:Insyriated
配給:ブロードウェイ