『エイブのキッチンストーリー』映画レビュー(感想)

お皿を洗うことがこんなに楽しいことになるなんて思ってもみなかった。

エイブのキッチンストーリー」は、そんな思いがけないプレゼントがたっぷり入った映画だ。

エイブは12歳のブルックリンに住む少年。食べることも料理をすることも大好き。それ以上に楽しいことはあまりないようだけれど。

ところで、エイブの家庭は普通じゃない。父も母もいるし、おじいちゃんたちやおばあちゃんにも愛されているから、格別不幸なわけでもない。

普通じゃないわけは、父がパレスチナ系(だけど無宗教)、母がユダヤ系ということだ。私もパレスチナに住んでいたことがあるので、その設定がかなり普通じゃないことは知っている。特に地元では99%あり得ないはずだ。ニューヨークだって、ほとんど聞かないだろう。

エイブは敵対する二つの民族の愛の結実なのだ。だが、その普通じゃない家庭は、エイブの成長とともに、無理が見えてきている。

父の両親は、アラブの文化の元で育ってほしい。母の父は、ユダヤの伝統を受け継いでほしいと願っている。

エイブ自身はその状態に悩むことはない。12歳で料理への興味で楽しい盛りだ。しかも彼は、こんな子供がいてほしいというぐらい、いい子なのだ。でも、家族はそんな彼の素晴らしさに全く気付かないらしい。

彼の料理への興味も、理解しているようで理解していない。

彼は夏のキャンプに、料理キャンプへ行くことになるが、彼の興味のレベルよりかなり下だったため、ひそかに知り合いになったブラジル人の共有キッチンで本格的な料理の手ほどきを受けることになる。

映画を見ていて気分がよくなるのは、色彩、音楽、練り上げられたストーリー、親近感のあるキャラクターなどが欠かせないけれど、映画の中の落差やギャップも一つの要素だ。

こうなるはずだと思い込むところを、突然落差が襲う。『エイブのキッチンストーリー』は、その落差を見事に描いている。

あるシーンで、子どもにとっては恐怖としかいいようのない空気感が、スクリーンを覆い、見ている方も凍り付いてしまう。

作り手はどのようにその危機からエイブを救うのだろうか。

ふっと和らぐ空気。すっと差し込む光。なにげなく、美しい瞬間が来る。

上昇ギャップは下降ギャップよりずっとスムーズ。気づかないくらいの微妙な落差だ。

「人生は美しくなる前に汚くなる」と、エイブはお皿を洗いながら言う。

料理は、機嫌よく。

お皿を洗うと、人生も美しくなる。

そう思うと、お皿を洗う喜びも大きくなるとは思わない?

オライカート昌子

エイブのキッチンストーリー
(C)2019 Spray Filmes S.A.
2019年製作/85分/PG12/アメリカ・ブラジル合作
原題:Abe
配給:ポニーキャニオン