「女はちょっとイカレているほうがいい」というのはデヴィッド・エアー監督の快作『スーサイド・スクワッド』の中のセリフだが、こう言えるのは限りなく非日常の世界であってこそ。わたしたちが生きているこの日常では、イカレた女はそこはかとなく怖ろしいものに変貌する。
美容師としてスマートに働く海斗(池松壮亮)が、初めて来店した小夜子(常盤貴子)に営業メールを送ると、彼女から返信が来た。それからというもの、メールが続くどころか彼の住まいまで探し当てられる。ドアノブには苺のパック入りの袋がかけられる。明らかにストーカーと化した小夜子のことが恋人(佐津川愛美)に知られ、恋人は何ごとかを察知して海斗に怒りをぶつける。
髪に触るという行為は、いくぶん性的なものを含んでいる。わたしが30年通う美容院のオーナー美容師はだいぶ年輩になり、わたしも髪に触られることに馴れてしまったが、最初のうちは微妙な緊張感があった。そして美容師という職業は、コミュニケーション能力が高くなくてはできないけれど、ある種の鈍感さを持ち合わせていたほうがいいと思うようになった。
きっと小夜子は髪に触れる海斗の指先から、彼の鋭敏さやセンスの良さを好もしく感じ取ったのだろう。そこまでならごく普通のことだが、彼女の場合はそこから彼の自分への特別な思いまでをも(勝手に)感じ取ったに違いない。特別な思いには応えなくては、というのが彼女の自然な感情なのである。
その感情がふくらんだりしぼんだりする様子が、次第にエレガントなホラーのようになっていく。小夜子によって恋人にあらぬ疑いをかけられて、反発した海斗は思いがけぬ激しい行動に出る。わたしたちはちょっとしたことでこんなにも動揺し、爆発しかねない感情を抱えて生きているのだ。
『酔いが醒めたら、うちに帰ろう。』の東陽一監督は、いっそう若々しく洗練度を増した演出を見せる。一人の女、一人の男、それぞれの心理をミステリアスに、やや苦い共感を誘いつつなめらかなタッチで描く。『誰かの木琴』という小船に乗せられ、船酔いする寸前に浜辺に降り立たされたみたいだ。
忘れがたい『紙の月』(2014)、『ぼくたちの家族』(2014)、今年は『海よりもまだ深く』、『セトウツミ』、『永い言い訳』、そして新作『デスノート』と出演作が引きも切らない池松壮亮だが、今回、初めて彼の胸のうちをそっと覗き見たような気持ちにさせられた。映画は“覗き”の快楽であると思うわたしとしては、彼との親密度が高まったようでこのうえなく幸せである。
待てよ、これでは小夜子ではないか。わたしはこの映画によって小夜子の感情にからめとられたのだと、おぞましさと心地よさを同時に覚えて震えがくる。
(内海陽子)
だれかの木琴
【監督・脚本・編集】 東 陽一
【出演】常盤貴子 池松壮亮 佐津川愛美 / 勝村政信
【原作】井上荒野「だれかの木琴」(幻冬舎文庫)
【主題曲】井上陽水「最後のニュース」
2016年/日本/112分/ヴィスタ/5.1ch/ G
【配給】キノフィルムズ
オフィシャルサイト www.darekanomokkin.com