『あんのこと』映画レビュー 一人の女優の誕生と作らなければならなかった映画

「作られなければならなかった」映画があるんだな、と、『あんのこと』を見て考えた。杏という女性について、そして取り巻く時代と、コロナが世界を変えたことについて。

『あんのこと』では、実際に起きた出来事が描かれている。実話の映画化作品には、フィクションにはない魂があり、こんなすごいことは、あり得ないと思える話であっても成り立つ。まさか、こんなひどいことはないだろうと思える話もある。

『あんのこと』の場合は、杏(河合優実)の家族の描写が衝撃だった。杏の母親(河井青葉)は、杏を中学へ行かせず、生活費を稼がせた。そのせいで、杏は漢字が読めないし、書けない。杏の母親は、名前を呼ばず、杏を「ママ」と呼ぶ。映画の中ではさらにひどい実態が描かれている。

だが、一番心に残るのは、杏が、それでも立ち上がり、なんとか真っすぐ生きようとする姿だ。決して忘れることができないほどに強く。もちろん助けがあってのこと。

映画を作る側が、透明で中立的で誠実な姿勢を持っているのが、確実に伝わってくる。実際に起きた出来事と、関係者に対する思いが、映画の隅々まで行き届いている。

「あんのこと」では、一人の女優が、立ち上がって生まれる瞬間を目撃することができるのもポイントだ。杏を演じる河合優実の細やかで自然で、はにかんだ笑顔が心に刺さる。見ているだけで満足できて、一瞬一瞬、目が離せない。

後半にあるシークエンスの、心の揺れの表情としぐさは必見だ。部屋で一人きりの彼女。苦しく、美しさに満ちている。つたない文章を綴った日記を取り出す。何をしようとするのか、彼女の心に何があるのか。

本作のシナリオと出会った河合は「彼女の人生を、自分が生き直す」と決意したという。入江悠監督は、「河合さんでなければこの映画は撮れなかった」という。

あんを取り巻く人々のアンサンブルも素晴らしい。人情味あふれる刑事・多々羅(佐藤二朗)、彼の友人であるジャーナリスト・桐野(稲垣吾郎)。

人は、一人では生きていけないという真実を、強く突きつけられたような気がした。ただ、たった一人でも、誰かいればいい。その一人の存在の大きさは、想像できるよりもはるかに大きい。『あんのこと』には、悲惨な部分はある。けれど、希望と明るさと爽やかさも、しっかりと残るところに、この映画の凄さを感じる。

(オライカート昌子)

あんのこと
2024 年 6 月 7 日(金)新宿武蔵野館、丸の内 TOEI、池袋シネマ・ロサほか全国公開
© 2023『あんのこと』製作委員会 PG12
出演:河合優実 佐藤二朗 稲垣吾郎
河井青葉 広岡由里子 早見あかり
監督・脚本:入江悠
製作総指揮:木下直哉 企画:國實瑞恵 ス
配給:キノフィルムズ