『愛がなんだ』映画鼎談

『愛がなんだ』は、第31回東京国際映画祭コンペティション部門にノミネート、話題を呼んだ作品です。直木賞作家、角田光代の原作を「パンとバスと2度目のハツコイ」「知らない、ふたり」の今泉力哉監督が映画化。好きになった相手に全力で尽くす片思い。それを端正な映像で描き出しています。映画『愛がなんだ』について、内海陽子、増田統、オライカート昌子で鼎談を行いました。

愛がなんだ あらすじ

最初は、友達の結婚式の二次会で出会った”マモル”(成田凌)の綺麗な手に惹かれた山田テルコ(岸井ゆきの)だったが、いつしか毎日は、その恋だけのものに変わっていく。仕事はそっちのけ。携帯が鳴るのをひたすら待ち、呼び出されればいつでも”マモちゃん”に会いにでかける。

ある日、マモちゃんからの連絡が途絶える。マモちゃん第一のため、仕事もとっくにクビになっていたテルコは、やっとのことで就職活動をスタート。就職が決まりそうだった瞬間に”マモちゃん”から連絡が入り、面接そっちのけで、会いに行く。

ところが、”マモちゃん”の横には、知らない女、すみれ(江口のりこ)がいた。どうやら”マモちゃん”はすみれに惹かれているらしい。テルコ、マモル、すみれ、テルコの友人葉子(深川麻衣)、その葉子を一筋に愛するカメラマン志望の青年ナカハラ(若葉竜也)。5人の男女のそれぞれの想いは、複雑にねじれながら、新たな展開を引き起こしていく。

愛がなんだ 映画鼎談

登場人物がチャーミングなのは、今泉監督の手腕

内海:わたしは最近、成田凌がめきめき腕を上げていると思っていて、彼を目当てに見に行きましたが、岸井ゆきのがすばらしい女優であると気づいて、そちらに驚きました。

増田:私は本来、この手の“恋は盲目”的な恋愛映画は苦手なんですよ。それなのに、なぜ登場人物がこんなにチャーミングなんだろうと考えたときに、今泉力哉監督の成長というとおこがましいですが、手腕が大きいと思ったんです。

前作『パンとバスと2度目のハツコイ』(2017)でも今泉監督の力量は評価していたのですが、『愛がなんだ』は角田光代さんの同名小説が原作で、今回、今泉監督は初めてオリジナルではなく、原作ものを監督したんです。その挑戦が、映画監督としての広がりに繋がったのかなと。

内海:原作に、今まで今泉力哉監督が描いてきたものと同じエッセンスがあるんだと思う。脚色することによって、第三者的な目線が加わって、すごくシャープになった。なによりも笑えるのがいい。原作も読みましたが、原作は笑えるようには書かれていない。

映画の方はメリハリもあるし、わたしは、肌触りのいい、身体にぴったり合うコートを見つけたように気分最高でした。登場人物すべての気持ちにフィットする、わかるんです。一人一人が発言する裏側にあるものとか、目線の意味とか、全部わかるような気がして、それは監督の表現力、説得力のおかげだと思います。見るわたしとの相性のよさもあると思うのですが、やっぱり監督の腕がいいんだよね。

増田:今、内海さんが笑えるとおっしゃったのは、登場人物の中に自分自身にもある見たくない部分を見せられている、そういう自虐が私は笑えるのかな、と。原作には少しシニカルな悲壮感があるんだけど、映画はそういう要素を払拭していて、むしろ爽快なぐらい(笑)。

内海:監督は30代後半ですけど、ものすごく大人ですよね。50代、60代になったすぐれた人の落ち着きというか、そういうものを持っていると思う。映画にはあれだけ性格の違う人物が登場しますが、すべてが主人公というか、一人一人の自我がちゃんと描かれて、全部納得がいって、最終的にとても悲しいお話なんだけど、つまらない絶望感は与えない。おみごとです。

幸せになりたいというあがきを抱えて生きている

オライカート:わたしはこの映画を見たとき、あまり悲しみは感じませんでした。内海さんは、どういうところが悲しかったのですか。

内海:つまり、人間の営みというものはその人の思いどおりにはならなくて悲しいということです。男と女がいることとその葛藤。つい人と比べてしまい、ついつい相手におもねてしまう、恋する者の愚かさ。女と女の葛藤もあるわね。生きていくことそのものが悲しい、だけれど崇高でもある。普遍的でクラシックなお話だよね。

増田:カメラマンのナカハラが言う「幸せになりたいっすね」という台詞。これも原作にはないんですが、やはりみんなそうなりたい、幸せになりたいってあがいているから、悲しいんじゃないかな? そのあがきを抱えこんで、生きているわけだから。

内海:それをこれ見よがしではなく、どこか諦めてもいる姿勢で描いてそれがまたいい。最初のヒロインの登場のところで、わたしはこの子はバカだと思いました。ものすごく愚かに見えるんですが、じつはバカじゃなくて、真剣に片思いをやっているんだなあ、と気づいて本当に悲しくなりました。自分を取り繕うことなく、マモちゃんを好きだっていうことを自分で肯定していることは、勇気がいると思う。

私はああいうタイプじゃないから、ちょっとズルいし駆け引きをする。テルコは、駆け引きをしないんだよね。そこは原作の良さを生かし、敬意を表しつつ、着実に物語をランクアップさせていると思う。

「今までの角田光代さん原作の映画の中で一番いいと思います」と宣伝部の女性に言いましたら、角田さんご本人がものすごく喜んでいらっしゃるという答えでした。映画が作られたことによって、角田さんが言いたいことが完成したということに近いんじゃないかな。

原作は女性が主人公で、物語の核になっていますが、映画は全員がヒロインでありヒーローで、みんなが悲しいという構図で、凄くキャパシティがあります。

増田:だから全然、飽きさせない。

原作を解体して組み上げる建築的センス

内海:わたしはずっと見ていたいと思う人間です。こういう恋愛ものは、普通は頭でっかちになってしまう。ほら、こんなにかわいそうだよ、これぐらい人間は複雑で、つらいんだよとくどくど訴える形になる。うるさいよ、そんなのみんなわかってるよ、と突っ込みたくなるんだけど、そういう感覚にまったくならないのが、この映画の懐の深さですね。

増田:それまでがアバンタイトルのように本編の途中、登場人物の名前が字幕で出てきて、ここからまた一から始まるのかなという展開が結果的にとても心地よくて、ますます心情的に彼らに寄り添ってしまった。

内海:『桐島、部活やめるってよ』(2012)のレビューでも書いたのですが、まず原作を解体して、組み上げる建築家的センスとか数学的センス、そういう頭脳の力がまずある。それに情緒を絡めて人間を作っていく。最後にそれを魅力的な物語としてちゃんとお客さんに届ける。そういう三段階の優れた腕がある。

増田:今泉力哉監督ならではの色をそこに投影させて。

オライカート:監督の描き方は、人物に寄り添っているのですが、ふっとそれが人物から離れて俯瞰しながら眺めるところがあってそこに心地よさを感じました。人物の内面から少し視線が上がる感じ。

前半は、マモルとテルコがメインで描かれています。河口湖のところで二人の関係をギュッと凝縮させる。そして視線を変えて4人の関係性を一度整理する。そこから画面に字が出る。飽きさせない方法だし、そこからまた始まる第三幕的なレベルアップを感じました。

増田:監督は登場人物の中でも、とりわけナカハラ君に思い入れがあるんじゃないかと感じています。

オライカート:私もナカハラ君のキャラは好きなタイプです。最後の方でテルコと二人で話すシーンは、泣かせてくれます。

内海:私はむしろ、河口湖のシーンがクライマックスに感じました。ナカハラ君が怒るでしょ、葉子さんの悪口を言うなと。あれは映画が作った肝ですよね。彼に発言させて、彼のキャラクターを明晰なものにする。あのシーンで、各キャラクターのいい意味での単純化がうまくいっている。みんな複雑でもっともっと、ねじれているけれど、ねじれていることの表現のさせ方がしっかりしているのよね。だから味付けが美味しい。

増田:監督として肝が据わっていますよね。このシーンではここまで見せるという軸がちゃんとできているから、見る方も気持ちよく物語に引き込まれていく。

内海:でもそれをちゃんと見せてわからせるのは、相当な技がいるのよ。

誰かを想うことのつらさ

増田:たとえば、夜道でテルコがすみれの嫌いなところを独りラップ風にあげつらうシーン。ところが、嫌いな要素が全部、すみれさんの魅力になっている。それを映像でいかに説得力をもたらすかが、監督や出演者の力量。

内海:残酷なほどよね。あれはすみれさんを演じる江口のりこと、岸井ゆきのの相性が高級なレベルで上手く回っている。もちろんそれこそが演出だけれども。役者さんたちはみんなものすごく仲良くなったんじゃないかしら。映画は共同作業だけれど、すごく幸せな共同作業だったんじゃないかと思います。

オライカート:私はこの映画は、幸福な映画だなって思ったんです。だからさっき、内海さんが悲しいとおっしゃったときすぐには思いつかなかったんですが、すみれさんは、山田さんが大好きなマモちゃんから愛されていて、自由奔放に楽しく生きているように見えるけど、河口湖のシーンでは、本当に悲しさを見せてくれる。監督は、人を多角的に見せていていますね。映画の中に、人間存在の幸福の部分と悲しみの部分が両立しているのが伝わってきていると思いました。

私がなぜ最初に幸福な映画だと思ったかと言うと、好きな人や好きなものや好きなことを考えている時は幸せな時間だという考えからです。

内海:それには異論があるわ。この映画では、恋をしたり、人を好きになったりすることはつらいこととして描かれている。わたし自身は、この映画に限らず、そういうものだと思う。誰かを想うこと、何かに心奪われている状態というのは、どんなに苦しいことか。だけどそれが好きで、そういうふうにしか生きられない。それがナカハラくんじゃない? 彼が典型的よ。

オライカート:それを苦しいというか、幸福というかは見方ではないですか?

内海:見方ではなくて感性ね。

増田:苦しいからこそ、それが映画のテーマとしてより深くなるんじゃない?

オライカート:幸福だったら映画にならない?

内海:映画を見ている私たちは幸福になる。だけど映画の登場人物にとっては、幸福は最も遠いところにあるお話だと思います。私たちは映画を見ることで幸福を与えてもらっていますけれど、作品世界は非常に苦しい世界。

だけどこの感覚は、長い間独身だった人にしかわからないのかもしれない。つまり長く生きていると、そういう体験って自然に積み重なるじゃない? 大恋愛とまではいかなくても、人を好きになる気持ちが強くなったり薄くなったり、誰かが誰かを好きになるのを見ていたり、ああ、もう終わったんだなと思ったり。

そういうのを何度も体験して積み重なっている。そういう人間にとってはよくわかる。だからまとめてみれば、恋というのはそもそも悲しい。でもその中で突然の素晴らしいできごとがあったり、好きな人を遠くに見たり、好きな人にちょっと触ったり、そういうことを喜びとして生きているのではないかと。

増田:本当に幸せなのは一瞬かもしれない。だからこそ、いいんだと思います。苦しさの中で、ほんの一瞬の喜びを求めて恋愛する感じ。もしかしたら、それさえも勘違いかもしれない。その“思い込み”ゆえの恋愛の苦しさというのもある。

いろいろな片思い

内海:今泉力哉監督の前作の『パンとバスと2度目のハツコイ』もそうですが、彼の作品は片思いがテーマのようで、今回の映画ではっきりしましたね。原作はヒロインのテルコだけが主人公。今回は主人公が多くて、みんなが主人公だと思うんですが、主人公を増やしたのは、いろんな片思いを描きたかったからではないかしら。

増田:テルコに対するナカハラ君もそうだけど、対(つい)になる存在がいて、そうすることで自分が置かれている立場を客観視できる、だから笑いも起きる。けれど、テルコはマモちゃんの使い走りのように都合よく扱われているから、下手すると、彼女はかわいそうなヒロインだって憐れんじゃったり、馬鹿な女だなって断罪しちゃうと、そこでもうおしまい。それは作り手にとっても、見る側にとっても、すごく難しいバランスだと思う。

内海:彼のために仕事も顧みないのだから、わたしは最初の方はそう思ったもの。恥ずかしいじゃない、ああいう姿って、実に愚かだと思う。終盤で、彼が「もう会うのはやめよう」というところで、テルコが上手な芝居をできるのは、ちょっと無理があるかなと思うんですけどね。

オライカート:私はあれを真に受けました。芝居をしているんじゃなくて、本気なのかなって、一瞬思いました。

内海:いやいや、芝居なんだよね。テルコにあの芝居ができるかなって、それが気にかかった。あそこは小説だなって思いましたね。小説のままなんですよ。そこだけは、監督もいじれなかったか、生かそうと思ったのか。監督が描こうと思っていたヒロイン像と少しズレがありました。あの子はああいう風にふるまえない子だと思うから。

増田:それまでは駆け引きが出来ないタイプだったからね。

内海:あそこであれができるなら、それ以前にもうちょっと別の何かができるだろうと。

増田:でも、それが彼女の“成長”なのかも。

内海:その成長が早すぎて、人間そんなに早く成長できるかなって思うの。あの部屋の中に一緒にいるわけだから。一旦外に出て、また中に入るならともかく。あの芝居ができるのはもっと違うキャラクターですよ。

増田:ペンションの持ち主の息子と二人で、抜け駆けのように別れて行っちゃうシーンがあるじゃないですか、あれは明らかに芝居ですよね。あのあたりから、彼女がそういうことができる子になってきたのかなというのは、理屈に合います。

映像で勝負している

内海:わたしはたぶん、途中から彼女の愚直さが気に入ってしまったのね。それがあんなにスマートに「うぬぼれてんじゃないの?」って言えるので、きっと少し裏切られた思いがしたんだわ(笑)。

増田:ようやくプライドが芽生えちゃったんですよ。最初は恥も外聞もなくマモちゃんに突き進んでいったのが。

内海:もしかすると、すみれさんとの付き合いが関係しているかも。すみれさんは、そういうプライドの高いタイプでしょ。マモルが自分のことを見ているときにわざと見ないとか、かなり恋の駆け引きに長けている。それからマモルが、テルコが自分のことをそんなに見ているわけじゃなかったんだと思った瞬間に、ちょっともったいなくなった心理とかはおかしいよね。まさに自惚れ屋さん。

オライカート:ヒロインは、同化したいというのが、一番大きなテーマのようですね。

増田:それは文学的な表現に過ぎないと思う。だから、私はそれが映画でも一番大きなテーマかといわれると、甚だ疑問です。

オライカート:ラストシーンにも関わってくると思いますが。

内海:あれは少し言葉が浮いているわね。最後のせりふは、あったとしても小説にあるから入れたのでは。いかにも角田光代っぽい。だけど映画の登場人物に関しては、みんな自己中心的に生きているだけだから。誰かのことを思いはするけれど、同化するのは違う。

増田:そのラストシーンだって、実のところリアルだかファンタジーだかわからない。

内海:原作にはないわね。ファンタジーかもしれない、そっちの方がいいわね。

増田:あのラストシーンは、「同化したい」ということに対する監督の答えだろうなって、角田光代の文学的表現に監督が映像で答えたんだなと思っています。

内海:肉体的というより、彼の頭の中、彼の観念の中に住みたい。とにかく彼が好きで、彼そのものに包み込まれたいという感覚なんでしょうか。動物園に一緒に行って、マモちゃんと会話している瞬間が、テルコはとても幸せだった。彼の未来の夢に自分も一緒にいると考えることで、一瞬幸せな夢を見た。

増田: つまり「マモちゃんになりたい」というのを映像でアプローチすることで、原作をリスペクトした。

内海:角田光代さんが喜ぶのもわかりますよね。キャラクターがみんなふくらんでいる。

内海:見せ方がうまいよね、相当伸びますね、この監督。テーマがはっきりしてきて、ご自分でも手応えがあったと思う。慎重に模索していた片思い、それが今回はかなり深い形で仕上がっているのではないかしら。

増田:映画作家としてより大きなスケールの中で、“片思い”というミニマムな世界を揺らぐことなく追求しているのが、私は頼もしかった。

内海:冴えていますよね。色彩が鮮明という感じ。ぼやけた状態になりかねない世界なのに、ちゃんと、映像で勝負しようとしている。増田さんは作家とおっしゃったけど、作家作家してないのよ。それが一番好きなところなの。私は作家主義タイプの人が嫌いだから。

増田:そこで敢えて言わせていただくと(笑)、前半はアップを多用していて、それが次第にカメラが引いて、パンの映像へと展開してゆく。ちょうど、最初は近視眼的な主人公の視野がだんだん開眼していく感覚を、私たちにも共有させてくれているように感じます。

増田統/内海陽子オライカート昌子)

愛がなんだ 作品情報

4月19日(金)、テアトル新宿ほか全国公開
(c)2019『愛がなんだ』製作委員会
日本/2018/123分
原作:角田光代「愛がなんだ」(角川文庫刊)
監督:今泉力哉 
出演:岸井ゆきの 成田凌 深川麻衣 若葉竜也 片岡礼子 筒井真理子 江口のりこ
配給:エレファントハウス

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