ロベール・ゲディギャンは、マルセル・パニョルの魂を今に受け継ぐ映画監督だ。穏やかで豊穣な四季に恵まれた南仏プロヴァンスに生きる市井の人々の悲喜こもごもを人道主義的な眼差しで掬い取ったパニョルは、そこに罪人にもその人なりの道理があると言い添える。そしてそれが時に人々の価値観に思いがけない揺さぶりをかけることになる。
ゲディギャンの新作『キリマンジェロの雪』では、主人公ミシェルと若者クリストフの関係がそうだ。ミシェルにとってクリストフは自らの手で“公平”にくじを引き当てた“解雇仲間”のはずだった。しかし、妻マリー=クレールとの老後に充分な退職金を手中に収めたミシェルに対して、明日をどう生きるかもままならず、“仕事”で留守がちの母に代わって父親の異なる幼い二人の弟の世話を焼かねばならないクリストフの将来は、明らかに別世界だ。
そんなミシェルとマリー=クレールの盛大な結婚30周年パーティで、夫妻の念願だったキリマンジェロ行きの航空券がプレゼントされたのを目の当たりにしたとき、クリストフの胸中に理不尽な怒りが渦巻いたとしても無理はない。こうして彼は、無視され見捨てられた世の中を見限って、自ら“富の再分配”に着手する。
フランス社会党の結党者ジャン・ジョレスを信奉するミシェルは、これまで“人を傷つけずに生きてきた”ことに胸を張る、誠実な正義漢だ。なだらかな舗道が続く丘の中腹に建つ我が家も、港湾労働者としての半生を勤勉に全うしたことの証と、そこから眺望できるマルセイユの海に誇りを注いできたに違いない。そんな彼の当たり前の幸福が、クリストフと仲間たちによる強盗で初めて揺らぐ。強盗に遭ったことにはもちろん衝撃的だが、それより“人を傷つけずに生きてきた”これまでの人生に満足し、安穏としている自分自身がショックなのだ。
そんなミシェルの自省に重なるラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」の抒情的かつドラマティックな旋律が、私の心を感傷的に彼の葛藤に寄り添わせる。子供は、私たちの社会が育てる。たしかに、ミシェルの決意は理想にすぎるかもしれない。しかし、ひとまずやってみるのだ。クリストフの隣人で、唯一彼ら兄弟を思いやる娘アニェスに協力を申し出るだけでもいい。退職後の暇をかこつ我が身に、それは新たな刺激をもたらすことだろう。まだ人生から“引退”するには早すぎる。
そして何より、友や我が子が強行に反対を唱えたミシェルのそんなささやかな“闘争”に、そうと告げるまでもなくマリー=クレールが従っている“夫唱婦随”が、彼らの見果てぬ夢が決して徒労に終わらないであろうことを観る者に確信させる。
間違いなく、ミシェルはゲディギャンの分身だ。マリー=クレールを監督の愛妻アリアンヌ・アスカリッドが演じていることでも、何気ない夫婦の会話や日常描写に、彼らの私生活が反映されていることが察せられる。とりわけ、ミシェルに扮したジャン=ピエール・ダルッサンは、アキ・カウリスマキの『ル・アーブルの靴みがき』での無愛想な外見に優しさを秘めた純情刑事役が記憶に新しいが、その人懐っこい体躯には人情味あふれる愛嬌と無骨な知性がきらめき、まさに労働組合の委員長のミシェルははまり役だ。
ミシェルのロッカーの扉には、ジョレスの写真の下にスパイダーマンのイラストが飾られている。それは理想と童心が併存するミシェルの心の宇宙を象徴する。そしてそのスパイダーマンのコミックが、強盗事件の謎を解くことになるゲディギャンの遊び心。マリー=クレールにギリシャのお酒“メタクサ”を勧めて、彼女の心をほのかに昂揚させる愛すべきバーテンダーのように、ゲディギャンもまた人生を肯定するおおらかな楽観主義者だ。今は憎悪だけで反省の色さえ垣間見せないクリストフにも更生の機会は訪れる。ヒューマニスト、ゲディギャンは映画の終わりの時の向こうに、そう見据える。
経済格差が広がり、移民問題が高まる現代だからこそ、競争ではなく共存に私たちの社会を託そう。そんなゲティギャンのメッセージは、奇しくも17年ぶりに社会党政権となった今のフランスの“労働者”の本音ともシンクロするのだろうと、ふと私は思う。
(増田 統)
キリマンジャロの雪
2011年 フランス映画/107分/監督:ロベール・ゲディギャン/出演:アリアンヌ・アスカリッド、ジャン=ピエール・ダルッサン、ジェラール・メイラン、マリリン・カント、グレゴワール・ルプランス=ランゲほか/配給:クレストインターナショナル
2012年6月9日(土)より、岩波ホールほか全国順次公開
オフィシャルサイト http://kilimanjaronoyuki.jp/