「俺が薬を取って来てやろうか?」
末期癌に侵された母へのアランのこの言葉は、間違いなく優しさから発せられたものだ。それがその数秒後には、罵りの怒声へと一転する。仕事を辞めたことを、「“つまらない仕事”さ」と開き直るアランを叱責する母に、憤怒を露わにする彼は殴りかからんばかりにこう言い放つ。「さっさとくたばってしまえばいい」
愛から生まれた感情が、なぜ瞬時にして憎しみへと変容してしまうのか。それは彼らが親子だからに他ならない。そんなアランに母は吐き捨てる。「亡くなった父親にそっくりだよ」
いや、家族に弱みを見せようとしないアランの厳めしい頑固さは、そう詰る母に瓜二つだ。その頑なさゆえに、母は生命の最期を、終末医療ではなく、尊厳死で締めくくることを決意するのだから。
ある夜、帰宅したアランは、リヴィングでテレビを見ながら食事を取る母を無視するように、キッチンで粗末な夕飯を食べつつ、ポータブルラジオをかける。それに張り合うかのようにテレビの音を上げた母は、アランの携帯が鳴るや、ボリュームを下げて息子の会話に聞き耳を立てる。お互いのことが気がかりなのに、そう振る舞えないふたりには、この母にしてこの子ありの苦笑さえ観る者に抱かせる。
“魔がさし”て手を染めた密輸の罪で、刑務所から18か月ぶりに出所したアランに、隣人のラルエット老人は「“お前が家にいてくれて嬉しい”と言っていた」と母の言葉を代弁するが、当のアランは、「母は俺を恥じている」と自嘲する。しかし、彼らはそんな本音を面と向かって吐き出さないまま、ふつふつと思うに任せない肉親への不満を募らせる。愛犬キャリーの散歩後、犬の足をきちんと拭かないと息子を怒鳴りつける母。彼女の口から衝いて出る言葉は、日常生活の些細な小言ばかりだ。「いつも文句ばかり、うんざりだ」「いやなら出ていけばいい。ここは私の家よ」
家族にはよくある売り言葉に買い言葉だが、“前科者”のアランには独立できるほどの稼ぎを得る仕事がそう簡単に見つかるはずもなく、頼りの友も失業中だ。畢竟、ラルエット老人の家に身を潜めるしか術を持たないが、母と息子の板挟みとなった老人にはいい迷惑だ。
深まるばかりの母子の溝に、思いがけず“一役買う”のが愛犬キャリーだ。母がキャリーの食事に毒を盛り、母子は動物病院の待合室で強引な再会を果たすのだ。
末期癌の母には、もはや時間の余裕はない。そのやむにやまれぬ“暴挙”に隠された真実を、アランもまた痛感するからこそ、もう抵抗することなく“自殺幇助”の道を歩み始めた母の傍に無言で寄り添う。それも家族のありようだ。彼らは、互いに振りあげた拳の下し方を見失っていただけだ。余命幾ばくもないと宣告され、幾晩もの涙の時を過ごした母の“覚悟”は、もはや揺るぐことはない。
黙々と林檎の皮をむく手作りジャムの作業も、今年が最後になるだろう。鏡に向かって細くなった白髪を梳る母は諦観に包まれ、勝気な外面よりもずっと脆い。
死は免れない。そんな母の運命を受容したとき、それは現実逃避していたアランの成長に繋がる。無職の恥ずかしさから、クレメンスの無償の愛を残酷に切り捨てたアランは、そんなちっぽけな男のプライドをかなぐり捨て、ようやく彼女に謝罪と本音を口にする。肩肘張って、本音を偽ることの無為を、今の彼は誰よりも熟知している。
監督のステファヌ・ブリゼは、母の最期を彼女が夢中になるジグソーパズルのゆくえとともに見つめる。最後のピースが収まるところに嵌め込まれたとき、彼女の胸中によぎるのは達成感より寂寥だ。どれほど充実していた人生でも、別れの哀しみから免れることはできない。しかし彼女の孤高なまでの峻厳とした誇りは、人生を生き直そうともがく息子の将来の指針となるのは間違いない。
原題の“Quelques heures de printemps”とは、「春の数時間」の意。ブリゼは、春という萌えの季節にあえて人生の終焉を重ねあわせ、そこに新たな生命の発芽を見つめる。現実から目を逸らすことなく、毅然と立ち向かった母の遺志を受け継ぐことで、アランは逃げを打っていた人生を新たに生き直す第一歩を踏み出すだろう。できないはずはない、彼は間違いなくこの母から生まれた息子だからだ。(増田統)
母の身終い
2012年 フランス映画/ドラマン/108分/原題:QUELQUES HEURES DE PRINTEMPS
(A FEW HOURS OF SPRING)/監督:ステファヌ・ブリゼ/出演・キャスト:ヴァンサン・ランドン(アラン)、エレーヌ・ヴァンサン(イヴェット)、エマニュエル・セニエ(クレメンス)、オリヴィエ・ペリエ、リュドヴィック・ベルティロほか/配給:ドマ=ミモザフィルムズ)
『母の身終い』公式サイト http://www.hahanomijimai.com/