『女は二度決断する』映画対談

映画『女は二度決断する』は、ゴールデングローブ賞外国語映画賞を初めとして数々の映画賞を受賞した話題作です。監督は、トルコ系ドイツ人のファティ・アキン。『愛より強く』(2004)『そして、私たちは愛に帰る』(2007)などで数々の映画賞にノミネート、受賞した名匠です。主演のダイアン・クルーガーは、第70回カンヌ国際映画賞主演女優賞を受賞しました。

ドイツ人女性カティヤ(ダイアン・クルーガー)は学生時代に出会ったトルコ系移民のヌーリと結婚し幸せな日々を送っていた。ところがある日、爆発事件により、一瞬にして愛する家族を失う。警察は、移民同士の抗争を疑っていたが、カティヤは、犯人らしき女性を目にしていたため、移民を狙ったネオナチによるテロだと訴える。ネオナチの若いドイツ人夫婦が逮捕されることに。本作について、内海陽子、オライカート昌子が対談を行いました。

報復についての思想的な物語

内海:今回の対談は、『女は二度決断する』です。私は全的に、ヒロインを演じるダイアン・クルーガーに同化したんですが、電話で話したとき、あなたは全的ではない印象でしたね。

オライカート:テロも描かれていますが、それはメインデッシュではなく、おかずの一品に過ぎなくて、主人公の全人生を描いているというのを一番感じました。おかずに目が引かれると、嫌な映画や、社会的な映画かなと思いそうですが。カンヌで記者会見に出席した方に聞いたのですが、当時パリのテロが起きたときで、記者会見では監督に対して「なんでこんなこういう映画を作ったのか」とか、非難轟々だったそうです。そこに目が行くと、違うと思います。

彼女の人生を賭けた個人の人生の選択であって、それがタイトルにもある二度の決断につながる。彼女にはその選択をする必要性があり、それしかなかったという点が心に沁みました。

内海:わたしはね、報復についての非常に思想的な映画だと思いました。報復とは何ぞや。報復するとはどのぐらいの決意でするものか、ということ。

オライカート:幸福?

内海:いえ、リベンジ、復讐の報復です。世の中には死刑廃止論者がいますが、私は死刑廃止に反対なの。死刑というのは、あって然るべき。なぜなら人間には報復心理があるからね。大事な人が殺されたりした場合、仕返しをしたい、相手に同じ思いを味合わせたい、という気持ちを抑えることはできないと思います。

それを今は、国家が代わりに死刑という制度でやっているということなんだけど、だんだんそういう感覚がなくなってきて、死刑で人を殺すのは悪いとか、ヒューマニズムというか、自分はとても倫理的な人間なんだ、という自己満足的な感覚で死刑廃止を訴えている人がいるように思えるんですよ。もしあなたのすごく大事な人がとんでもないやつにとんでもない殺され方をしたら、死刑反対なんて言えるのかな、そこまでこの人は考えているのかなって時々思うんですよね。

オライカート:わたしは死刑に関しては、内海さんとは違う考えです。イスラムでは、交通事故死させてしまった場合でも、命をとってもいいといわれています。目には目を、歯に歯をという考えで。その前に、家族が話し合って、賠償金で何とかしようとするんですけれど。でも、殺された場合は殺していい。死刑制度は、それに結びつくような気がします。

内海:日本の場合は、昔は仇討ち制度があったでしょ。それに代わるものとして国家が仇討ち制度をやめにして、それに肩代わりするという形から始まっているんですよ。それは他国のことではなく、日本の基本。

オライカート:死刑になっても冤罪もありますし。

内海:そういう風に、死刑廃止論者は、冤罪を前提として話を持っていくのよ。そこがおかしいと思うのよ。

オライカート:それは確かにそうですね。

内海:この場合は、罪が明らかなものに対してのお話よ。

オライカート:でもたとえば、ずっと執行を待っている人がいる場合、注目をそちらに向けたいがために執行時期を選べたり、政治利用もありますよね。

内海:それはまた別の話なの。私が言っているのは、死刑としての判決そのものの話なの。死刑として判決を受ける。それは大変な話でしょ。

オライカート:執行とは別?

内海:そう、制度の話。

オライカート:制度ですね。それは必要だと思います。制度と執行の間にはまた微妙なものがありますが。

内海:抑止力の問題もあるわね。

オライカート:抑止力というか、犯罪を犯す人は、自分は死刑を受けるという結末を覚悟して犯行に及ぶわけではないと思いますが。

内海:そうとも言えない。

オライカート:自殺の別の形として覚悟している人もいるかもしれませんが。

内海:でも結局はまた命が惜しくなるのよね。

被害者の無念の気持ちへの思いやり

オライカート:家族の気持ちというのは一番大切だと思う。

内海:俗に言う家族の処罰感情を、多少とも汲み取る制度として、死刑制度はあって然るべきだと思うわ。

オライカート:制度は、ということですね。執行とまで言わないとして。

内海:結局は同じことだけどね。冤罪、冤罪と持ち出す人は、議論としてずるいと思う。

オライカート:それは執行のことに目を向けているから。実際に命を取るというのは、重いものだと思います。

内海:取るというよりも、処罰するということだから。家族の処罰感情を代理で執行するということだから。まず家族の感情を汲み取る。法治国家というのは、ヒューマニズムというのが非常に浸透して、冤罪や加害者の人権というのを重んじるようになってきているでしょ。にもかかわらず、被害者の無念と被害者の周辺の人たちがさらしものにされた屈辱とか、そういうものに対していまひとつ思いやりが足りないと思う。

オライカート:この映画に関してですが、内海さんは、報復についておっしゃったんですが、私は幸福について考えたんです。彼女は初めの結婚の場面で本当に幸せそうです。あんなに幸せそうな結婚式は、見たことがないように思いました。なぜなのだろうかと思うじゃないですか。それは彼女が大学をドロップアウトし、麻薬に走り、体中は刺青だらけ、それを見ると、日々の生活が幸福に縁遠かったかと思わせる。

内海:それには異議がある。

オライカート:さもないと、それが失われたときに報復に走るかどうかと思います。

内海:彼女は激しい女なのよ。

オライカート:もちろんそうなんですが、親は男をとっかえひっかえしていて、ある意味彼女は安定した幸せを味わってこなかったのではと思いました。彼女の人生の選択において、そういう背景を感じることは一種映画に深みを与えているのではないかと思いますが。

内海:そんな一般的な幸せに関する考え方はすごくステレオタイプで、そんな風に考えるあなたが見えてきてしまうわよ。残念な感じがします。

オライカート:刺青も麻薬も一種自分を傷つけているということなので。

内海;刺青は彼女の意思の表明なのよ。だから侍の刺青を入れる。

オライカート:その前段階の面にも注目したいんですよね。さもなくば報復へいかない。

内海:大事な人を失った。だから報復する。それだけの話よ。一度目の決断のときに、小鳥がいた。これが私の最終決断でいいのかしら、と彼女は思った。そしてもう一度決断する。そこの思考が感動的なんですよ。左脇腹の侍の刺青を彼女は完成させるんです。

少し前に戻りますが、これは映画ですからね。映画というのは、報復感情というものを昇華させるんですよ。つまりファンタジーね。『ハリー・ポッター』などと同じなのよ。要するに報復というファンタジーの中で、一人のリアリティを感じさせる女がそれを担うから、現実レベルの社会問題をも引きずり込む。逆に映画がね、現実レベルの社会問題を利用しているとは思うけれども、作り話だからね。わたしは好奇心が強いから、彼女に感情移入したし、全的に引き受けられる。もし私が同じような目にあったときに、この映画を見れば、思いとどまるかもしれない、という感覚があるわけなの。つまり映画は代償行為だから。嘘なの。でもその嘘によって、人を救うこともできるのよ。だから私はこの映画をそういう映画だと思って見たの。

オライカート:それは思ってもみない見方でした。

内海;それは一番大事なところです、この映画に関して。代わりにやってくれるの。すべての文学や芸術はそうなのよ。そこから芸術や文学は生まれてくる。私たちが好きなすべて。あなたが好きなすべて。すごくゴージャスなファンタジーになっていても、根っこにあるものは、愛する気持ちとか、人に復讐したい気持ちとか、そういうものを取捨選択して、ひとつの絵空事を作る。それが歴史ロマンになったり、宇宙ロマンになったり、魔法物になったり、いろいろあるわけね。この映画はリアリティを感じさせる、女の復讐物語になっているけれども。そもそも文学や芸術はどこか人を救うためにあるものだと思う。

で、作り手がまず、自分を救いたいと思って作ったと思う。それがうまくいって、お客さんの心に届けば、観客の心も救うことができる。

この監督は、トルコ系ドイツ人でしょ。彼は彼の心の中にある、復讐心や屈辱感をこのドイツ人の女に託している。それで脚本を作ったと思います。復讐するには技術が必要だよね、そこが映画だよね。普通の人は思い立ったとしても、技術がなくて、悔しい悔しいで終わっちゃうじゃない。それを救う映画だと思います。それは日本のやくざ映画であるとか、そういうジャンルがありますよね、世界的にも。これはジャンル映画なのよ。だけどそれにとてもリアリティがあるから、それは監督がそれなりの苦労をしているから、リアリティを感じさせる映画にする腕がある。社会問題も描かれているけれど、それはあなたがおっしゃったように、副菜である。

オライカート:一本の映画として、優れているというより、一本芯が通って、一人の女の物語としてわかりやすくなっていますね。

内海:あなたの受け止め方は、とてもまっとうで健康的だとは思います。

悪魔が映画を作った

オライカート:報復までの道のりですが、彼女は人生を賭けてギリシャに旅立つわけです。それはその必要があったから。ファンタジーだからそういう形を取ったのかもしれませんが、普通の人はなかなかできないことだし、なかには彼女の決断がどうしても許せない人も多いとも思います。試写室で「嫌な映画だ」「気分が悪い」と非常に怒っている人がいました。

内海:それはわかりやすいヒューマニズムの人ですね。

オライカート:それが気持ちのいい映画かどうかは、私たちに委ねられているから、そこは今までの考え方とか人生が試されるラストではあると思います。

内海:これはさっきも言ったように、ジャンル映画ですからね。初歩の初歩に戻りますが、黒人の作家で詩人で評論家のジェームズ・ボールドウィンが「悪魔が映画をつくった」という著作を残しています。映画は悪魔が作ったんですよ。そもそも毒なのよ。だから、映画好きになるということは、毒にやられて、麻薬をずっと飲んでいるようなものなのよ。むろんひとつの考え方ですが。わたしはそういう考え方に立っているんです。

わかりやすく救いを与える映画もあるし、後味のいい映画もある。だけど、映画の芯は毒なのよ。それをどう味わうかが、あなたのおっしゃったように、自分が試されているということなのよ。で、自分のほうへ持ってこないで、この映画を嫌な映画だね、という人は与えられているだけ。嫌な映画でダメというのもいろいろなニュアンスがあると思うけど、映画はそもそも毒なんだから。毒を体に入れて、これは嫌な毒だな、と思うことはあるとしても、最初から「おいしかった」というのを期待して見に行くなら、素人さんですね。

オライカート:そういう意味では私は素人さんかもしれない。

内海:そんな風に言う必要はないわよ。

オライカート:映画を見ることは麻薬を体に入れるという視点はありませんでした。そういうことはあると思います。

内海:麻薬という言葉は混乱させたかもしれません。つまり芸術そのものの話ね。ものを表現する人、芸術家というのは、偉い人でもなんでもなく、自分が満たされない思いとか、自分の劣等感とか、この映画の場合は、報復感情ね、そういうものを作品にすることによって、そういう観念を浄化して、ちょっとだけ昇華する。現実レベルから、少しフワッとさせる、そういうものだと思うのね。

オライカート:毒と呼ぶか、クスリと呼ぶか。

内海:すぐに毒というのではなく、源にあるのは、ネガティブな感情だということ。

オライカート:そのとおりですね。そうでなくては要らない。

内海:その複雑な気持ちを発表する、あるいはひけらかす、いろいろな言い方がありますが。いずれにしてもこの世はわかりやすくないものだから。悪行を犯した人がのうのうと生き延びていることもあるし、なにもしていない人や子供があっけなく殺されたりする。世の中は基本的にわかりやすい言葉で説明できるものではないから。でも国家ができて、法律が出来て、それをみんなが守る。そういう最低の約束事ができれば、なんとか普通に動いていくけれども、やはり人間というのは、あるいは生きるということは、ネガティブなものから目を背けることはできない。

そのひとつとして、この映画はある。映画はリトマス試験紙だという言い方もある。すべての映画がリトマス試験紙ではないけれど、これは少し意地悪なリトマス試験紙的映画かもしれない。監督は自信があると思いますけれどね。この映画を見て、あなたはどう思うか。それで、あなたがわかる。

私はこの映画を見て、自分はいかに報復感情の強い人間であるか、もし自分の周囲でそういうことが起きたら、裁判するにしてもとことん戦うであろうとか、そういう勇気を持ちますね。絶対泣き寝入りはしないだろうと。

オライカート:彼女はその必要性があったと思う。

内海:必要性という言葉は他人事。

オライカート:私が言う必要性というのは、彼女の人生の選択は他にはないという意味です。他の人には他にも方法があったかもしれない。友人や家族の支えや。

内海:だからそうじゃないの。一番大事なものがなくなった瞬間にもう生きていられないの。

オライカート:彼女はね。

内海:そうじゃないの。わたしもそうだもの。そういう女の話なの。彼女は大事なものを失って自殺にも失敗して、そこで発想を変えたわけです。そして侍の刺青を完成させるということは、自分の身を賭けて、相手に報復する。

もっと言えば、後追い心中なんですよ。私は最も美しい自殺は、後追い心中ではないかと思ったことがあって。その相手が存在しないということは、もう生きていられないという映画があって、それは『キャリントン』(1995)なんですが、そのときにわたしは、自殺はあまり認めないほうだけれども、後追い自殺だけは、認めるなあって思ったんです。報復という言葉と矛盾しているようだけど、私の中では一致しています。

オライカート:そこまでわかる人は、選びますね。

内海:わかるというより、思うだけよ。

オライカート:私の場合は、表面的に受け取っている面はある。一辺倒に、彼女は大事なものを奪われたときにこれしかなかった、それが一人の女の全体を賭けた行動として衝撃的でした。ジャンル映画というのは、自分と違う異物を取り入れることだと思います。たぶん私はこのような行動は取る人だと思っていないところがあります。同じ立場にならないと、本当にはわからないことですが。

内海:伝奇ものはみんなそうじゃない? あなたが応援する『バーフバリ』もそうだし。古代の物語だったらちゃんと受け入れているじゃない。原点は同じですよ。

オライカート:確かにそうですね。

内海:そこはちゃんと考えなきゃだめよ。安心して見られる映画と、ちょっと自分に突きつけてくる映画とで迷っているだけですよ。ジャンル映画は、昔からの積み重ねで洗練されてきているけど、これは実話をもとにしているから、ちょっと刺激が強い。

オライカート:そういうことはありますね。

内海:そうよ。古代からずっと、血で血を洗う、長い長い殺し合いの歴史があるわけでしょ。この映画は、ジャンル映画の『ワンダーウーマン』と同じなのよ。

内海陽子オライカート昌子)

女は二度決断する
© 2017 bombero international GmbH & Co. KG, Macassar Productions, Pathe Production,corazon international GmbH & Co. KG,Warner Bros. Entertainment GmbH

4月14日(土)より、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国ロードショー!
監督・脚本:ファティ・アキン
出演:ダイアン・クルーガー、デニス・モシット、ヨハネス・クリシュ、ヌーマン・アチャル、ウルリッヒ・トゥクール
2017/ドイツ/106分
提供:ビターズ・エンド、WOWOW、朝日新聞社 配給:ビターズ・エンド

公式サイト:http://www.bitters.co.jp/ketsudan
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